元・緑のふるさと協力隊@やすおか

23期緑のふるさと協力隊として東京から長野県泰阜村にやってきました。日々感じたことを発信していきます。

人生の先輩たち

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直前になりましたが、今夜18時半~の青空レストランに泰阜村が出ます!

ジビエ料理かな?良ければご覧ください~

 

 

さて、木曜日は村の施設で暮らしているおばあちゃんに会いに行きました。

以前は毎週サロンに来ていたのに、風邪を引いてから来なくなっていたので心配していたけれど、変わらずお元気で一安心。

ちょうどデイサービスから帰って来たところで、杖も車椅子も使わずヘルパーさんの手を借りながら自分の足で歩いていました。お話しもしっかりしてくれるし私の声を聴きとれて、お裁縫が好きで今も針を糸に通せるそう!95歳とは思えない!

初めておばあちゃんに会ったのはたしか4月の挨拶回りの時。

「貧しさは薬だ」という言葉がずっと忘れられず、この日もお話しをしてくれました。

「昔は貧しくて大変だったから、今は何だって耐えられる。」

おばあちゃんは7人兄弟、長女として生まれ、母からいい子になりなさいと言われ育ってきました。

家は貧しく「働いてばっか」だったため満足に学校へ通えず、ハガキが一枚届いても何が書いてあるか読めない。勉強しようにも教科書もない。そこで、木へんやさんずいの付く文字をどれくらい書けるかやり、そのうちに競走する友達もできたそう。

「苦労して覚えた字は忘れん。」

25歳の時に隣に住む1歳年上の旦那さんと結婚し、その18日後に旦那さんは戦地へ送られます。同じように集落の若い男衆は招集されて居なかったし、当時23軒あった(今はたった4軒の限界集落)が、満蒙開拓で渡航し戻ってこなかった家もありました。

おばあちゃんは「うちは旦那が帰ってこれたから幸せ。」と言い、「あの人も苦労したと思うよ。」ベッドから見える白黒の顔写真を見ながら呟きました。

嫁ぎ先のお祖母さんはおばあちゃんのことをよく呼びとめたけど、それでも大事にしていて、旦那さんはそれを黙って見ていたそう。

お祖母さんは92歳、旦那さんは95歳で亡くなり、「今は一緒にいるような気がする。」と言います。

戦争が始まると生活は益々苦しくなり、一番辛かったのは食べ物がないことでした。

集落に田んぼがないため、畑で麦や芋を作り、山の食べられるものは何でも食べました。味付けは塩のみ。それでも当時は美味しいと思ったそうです。

「あの貧乏な暮らしは今の子は分からない。今は作らなくても何でも買える。お金はかかるけどね。苦労しなくていい幸せな生活を送っていると思う。」

「今は世間がいい。昔は貧乏な人は馬鹿にされた。」

たくさん子供がいてどうやって育てたのか、母は立派だと話していました。

私の年齢を教えると、「あんたこれからだよ。」と。
「子や孫が生まれて、その子達を怒っちゃだめ。思い通りにいかない時もあるけど。気を長くして、小さいことでも褒めなさい。できんことだよ。」

お裁縫が好きなおばあちゃん。ベッドの脇には色とりどりのコースターが並んでいました。

「こんなちっぽけな布でも尊いよ。」

「針と糸と布が無いと駄目なの。」

でも、最近息子さんが針が落ちると危ないからと代わりに編み物棒を持ってきてくれたそう。

手元には編み途中のマフラーがありました。

息子がダンボール一杯に毛糸を送ってくれたと少し嬉しそうに話していました。

 

 貧しさを妬むこともなく、育ててくれた親に感謝し、今を幸せと思える。

悔いのない人生ってこういうことかなと思います。

泰阜にきて色んな経験をしてきたけど人から学ぶことが多く、特におじいちゃんおばあちゃんと話してると、こんな老後を送りたい、豊かな心を持った人になりたいと思うことが何度もありました。

最後におばあちゃんがまた来てねと言ってくれて、でもその“また”は必ずあるとは限らないと思ってしまうのは、

村にきて何人もの訃報を聞き、こんなに亡くなる人が多いのかと思ったり、福祉の現場に少しだけど踏み入れて、訪問先の方が亡くなる経験もして、今までほとんど考えたことのなかった老後、介護、家族、死について考えるようになったから。

 

今しか聞けないお年寄りの話を自分だけのものにするのはもったいない。もっと広く、村の若い子たちにも知って欲しいと思っていて、特に戦時中のことを中心にまとめた冊子を作りたいなと目論んでおります。

(ここで宣言して自分にプレッシャーかける!)

あーー時間ない。

 

と言いつつ、今日は同期のところへ遊びに行ってきます(・ω・)